「アフリカ文学」を読んだことはありますか?
いきなり質問をしますが、「アフリカ文学」を読んだことはありますか? あるよ、というひとは、たぶんあまり多くなくて、アフリカに文学があるの? という(純朴であるだけにわたしにとっては胸の痛い)返答が多くあるのだろうな、と思います。
まあ、「アフリカ文学」を読んだことがあるよ、というひとが珍しいのは、さして不思議なことではありません。それには大きな理由と小さな理由があって、まず小さな理由の方から申し上げると、そもそも書店に「アフリカ文学」が置いてないことが多いのです。
おそらく現在もっとも手にとりやすい「アフリカ文学」は、岩波文庫に入っているエイモス?チュツオーラの『やし酒飲み』(土屋哲訳)でしょう。変なタイトルの本ですね。そもそも「やし酒」とは何か。酔っ払いオヤジの物語かなと思って最初の頁を繰ると、「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした」なんて書いてある。硬いのかやわらかいのかよくわからない奇妙な感触の文体で、奇妙奇天烈な話が綴られている。作者チュツオーラは、ナイジェリア出身の作家です。訳者による詳細な解説を読むと、この奇妙な感触の文体が、英語のうちにヨルバ語が響いているために生じたものであることがわかります。チュツオーラは英語で執筆をしましたが、そこには、彼が生まれたナイジェリアに住むヨルバの人々の言葉が滲んでいるのです。同じく岩波文庫に入っている南アフリカ出身の作家J. M. クッツェーの『マイケル?K』(くぼたのぞみ訳)を読んでいると——こちらの物語は『やし酒飲み』とはまったく異なるシリアスな内容だけれども——やっぱり多言語性の問題が浮上してくる。
ちょっと待て、お前の「専門」は、フランス語圏文学ではないのか? どうして英語やヨルバ語、さらには「南アフリカ文学」について語っているのか? と思われた方もいらっしゃるでしょう。たしかにその通りです。わたしの専門はフランス語圏のアフリカやカリブ海の文学?思想です。でも、アフリカやカリブ海を研究のフィールドとするとき、この「?語」という括りほど厄介なものはないのです。そして、「アフリカ文学」を読んだことがあるよ、というひとがあまり多くない理由のうちより大きな理由は、この点とかかわっています。
「アフリカ文学」は何語で書かれるのか? そもそも「アフリカ文学」という時、その「アフリカ」とはどこなのか? それが曖昧である以上、「アフリカ文学」を読んだことはありますか? などと尋ねられても、答えようがありません。つまり、質問が悪かった、ということです。では、どんな質問ならば良いのか……と考えるに至って、「アフリカ文学」という呼称が、いわゆる「日本文学」だとか「フランス文学」といった「国語」を基盤とした呼称とは根本的に異なる性質を持っていることに気付かされます。
たとえばわたしは、カリブ海にあるマルティニックというフランス領の島の文学をとりわけ専門的に研究してきました。カリブ海という地域は、16世紀はじめにコロンブスらによって「発見」され、以降、「三角貿易」と呼ばれる奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がサトウキビ畑で働くための奴隷として連れてこられた過去を持っています。そんなマルティニックで、1913年に生まれ2008年に亡くなったエメ?セゼールという詩人は、あるインタビューのなかで「私はアフリカ人です」と述べています。その真意は、彼の何代も前の祖先がアフリカからこの島へ連れてこられた黒人奴隷だったと表明すること、つまり、自分はカリブ海の人間であると同時に、アフリカに過去をもつ人間でもあるということです。
セゼールは1939年に「帰郷ノート」というフランス語で書かれた長編詩を、パリで刊行されていた小さな雑誌に発表しました。第二次世界大戦後、この詩は多くの人々に読まれるようになりました。とくに、サハラ以南アフリカの若者たちによってこの詩は愛読され、暗唱されました。じつは現代でも状況はあまり変わっていないようで、わたしがパリで留学していた頃知り合ったあるセネガル人の青年は、セゼールをセネガル人だと信じていました。
セゼールの作品は、「カリブ海文学」というべきなのでしょうか。それとも、部分的には「アフリカ文学」なのでしょうか。このような問いには出口がありませんし、そのような分類にこだわるのは、はっきり言って不毛です。
「そのような文学[引用者註:アフリカ大陸から離れ、四散した人々の文学]が私たちに語るのは、世界各地に散り散りになりながら、アフリカ人が別の「アフリカ」を創り出し、おそらく意義のある別の冒険を試み、こうしてアフリカ大陸の諸文化の価値を認め、また生まれた木から飛び立たなかった鳥には世界を渡る仲間の歌は決して理解できない、ということを自覚しているということです。」(アラン?マバンク『アフリカ文学講義——植民地文学から世界?文学へ』中村隆之、福島亮訳、2022年、53頁。)
このように語るのは、コンゴ共和国出身の作家アラン?マバンクです。わたしが研究しているのは、ここで言われている「世界を渡る」鳥のような作家たちです。セゼールのようにカリブ海で生まれながらもアフリカに自らの過去を求めた内的な渡り鳥や、マバンクのように、コンゴで生まれながらも合衆国で創作を続ける華々しい渡り鳥。同様の作家は、フランス語圏に限らず、多くいます。というよりも、本当はそんな渡り鳥たちが飛び交っていたということを、「フランス文学」や「日本文学」といった各国別の文学史観はなおざりにしてきたのかもしれません。
語圏という居心地の良いくくりから、一歩だけ外に出てみると、そこには何だかよくわからない〈世界〉が広がっています。翻訳やメディアの発達にともなって、渡り鳥たちは語圏というくくりからとうに飛び出し、広々とした〈世界〉を舞っているようにわたしには見えます。そんな作家たちの言葉に触れ、それを多くのひとに手渡してみたい。そんなふうに思いながら、研究を行っています。

- 教員名/福島 亮
- 専門/フランス語圏文学?思想
- 関連リンク/みすず書房「アフリカ文学講義 植民地文学から世界‐文学へ」

